Complete text -- "ウィーン駆け抜け"
05 May
ウィーン駆け抜け
ウィーンはいわずと知れた音楽の都、そして森の都である。また日本から中欧への出入り口でもある。13世紀から20世紀初頭までの約600年間に及ぶ華やかなハプスブルグ帝国の都でもあった。第二次世界大戦で荒らされたとはいえ、王朝文化を伝える数々の建造物、数多くの大音楽家達の像や記念館、そして今日も世界最高の音楽の聴ける場が、多くの観光客を引きつける。そこを僅か1日で駆け抜けようというのだからそもそも無理な話である。
4月23日午前中、先ずベルヴェデーレ宮殿を見学する(写真1)。この宮殿はトルコ軍を撃退した総司令官プリンツ・オイゲン公の夏の離宮として18世紀初頭に建てられた。上宮と下宮に分かれたバロック様式の豪華な宮殿である。上宮はオーストリア・ギャラリーに、下宮は中世とバロック美術館になっているが、外から眺めただけである。
続いてシェーンブルン宮殿を見学した。シェーンブルン宮殿は17世紀に建てられた、ハプスブルグ家の夏の宮殿である。中の見学は時間予約制で、中の撮影は禁じられている。女帝マリア・テレジアや少女時代のマリー・アントワネットもここに住んでいた。ロココ調の豪華な内部、女帝好みの黄色で統一された外観、総面積1.7平方キロに及ぶバロック庭園(写真2)。
午後はオプショナルの「ウィーンの森」ツアーに出かけた。ウィーンの森とはオーストリア・アルプスの東端が段々低くなって消えるあたり、ウィーンの市街地を北西から南西にかけて包み込むように広がる、数百平方キロもの広大な地域である。今回のツアーは南側の一部を巡るものである。
最初に車が止まったのは、マリア・エンツァースドルフという場所。石造りの城砦が見える(写真3)。ここがリヒテンシュタイン公国の発祥の地だという。いまは別荘として使用されているとか。
次は地底湖(See Grotte)。昔石膏鉱山の跡。狭く暗い坑道を進んで行くと、馬小屋として使われていたという小部屋(哀れ、真っ暗な中で飼われていた馬はほとんど目が見えなくなったという)、ヒットラーの時代にロケット推進飛行機を作っていたという部屋、安全祈願のマリア像などがある。最後に行き着いたところが地底湖。ここで電動ボートに乗って、複雑に枝分かれした坑道跡の地底湖を数分間のクルーズ。
シューベルトが「菩提樹」の楽想を練ったというレストランでTea time。側に西洋菩提樹が立っていた。
次いでハイリゲンクロイツの修道院(写真4)。ペスト終結記念の三位一体像があった。
最後にマイヤーリンクにひっそりと立つ礼拝堂。1889年1月某日、ハプスブルグ家の皇太子ルドルフが、后がありながら17歳の男爵令嬢マリア・ベッツェラとの恋に落ち、愛に生きるか帝位を取るか、悩んだ末ピストル心中を遂げた悲劇の場所である。一人息子を失ったヨーゼフ一世とエリザベート皇后は嘆き悲しみ、狩猟の館のあったこの場所に小さな礼拝堂を建てた。この悲話は「うたかたの恋」という映画になった。
ウィーンオペラ座横に戻ったら添乗員のM嬢が出迎えてくれた。いつしかM嬢と二人きりになり、歩いてシュテファン寺院を訪れる。12世紀から建設が始まったというこの寺院は、作られた時代によって部分部分で様式が異なる。正面入り口の門が最古のもので、ハプスブルグ支配以前のロマネスク様式。寺院全体はゴシック様式で立て替えられた。内部の祭壇は18世紀になって造られたバロック様式。北側の屋根にはハプスブルグ家の紋章である双頭の鷲と1831の年号が見える。
最後に新王宮前のブルク公園を散策する。珍しい色の八重桜(写真5)やマロニエの花が美しかった。ト音記号を前にしたモーツァルト像(写真6)を写真に納める。王宮は新旧とも博物館・宝物館になっていて、これを観るだけでも結構時間がかかるらしい。
M嬢が案内してくれたセルフサービスのレストラン。皿の大きさで値段が決まっていて、どんなに山盛りしても構わないというが、外国のレストランでは量の多さに辟易する日本人には、好きなものを好きな量、安く食べられるので便利である。
こうして慌ただしいウィーンの見物は終わった。何も見ないで、何も聞かないでこの文化と音楽の都を後にする感じである。ここだけで少なくとも4-5日は滞在してじっくり見物し音楽を楽しみたいもの。
翌朝ホテルの窓から見た日の出(写真7)を想い出にチェコへ向かう。
11:21:19 |
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