Complete text -- "議席数に示される民意とは(2)"
15 September
議席数に示される民意とは(2)
小選挙区制の危険性と非民主性(2)前稿で、小泉支持の民意が、投票した人の約半分、投票率を考えれば全国民の3人に1人であるにもかかわらず、獲得議席数が与党に絶対権限を与えてしまったこと、僅か3〜4%の人の心を変えるだけで、議席数の激変を生じうるということを示した。
今回の議席上の激変をもたらした有権者の投票行動の変化が、何によってもたらされたのかを本稿では考察する。
今回の勝利は自民党の勝利ではなく、小泉の勝利であることは明かである。脚本・演出・主演を一人でこなした。ここに、演説によって政治的プロパガンダの効果を上げるための基本原理を述べた言葉がある。「広範な大衆に働きかけ、少数の論点に集中し、同一の事柄を繰り返す」。実はこれはヒトラーの言葉である。ここには、大衆の情緒的な感受性にこたえて、論点を黒白図式で「単純化」し、それを繰り返し訴え続けること、断固とした口調で大胆に「断定化」することによって、論理によってではなく、情緒的に「人に信じ込ませる」手法である。(宮田光雄著、「ナチ・ドイツと言語」、岩波新書参照)
小泉首相の演説は、このヒトラーの手法そっくりなのである。複雑で多岐にわたる政治課題を「単純化」し、郵政民営化白か黒かで選択を迫る。そしてそれを「繰り返し繰り返し」、「熱情をもって」大衆に語りかける。そこでは騙しのテクニック、すり替え論理を縦横に駆使して、「断定的」に訴える。嘘も百回つき続ければ本当と思われるという、まさにヒトラー流である。岡田民主党代表が多用する「・・・ではないでしょうか」という問いかけ調は絶対使わない。(民主党の敗因については稿をあらためて考察する)。
討論ではまともに答えず、異論に耳を傾けず、間違いを一切認めない。そういう断固とした姿勢、ぶれない姿勢に憧れる土壌があったのも、ワイマール憲法下のドイツと似ている。生き甲斐の喪失と将来への不安のある中で、郵政民営化さえすれば他の改革はもちろん、外交までもよくなるという、常識では一笑に付されるようなことまでも、「そうだ、そうだ」と共感する人が出てくる。
首相の街頭演説を取材したテレビのコメンテーターが紹介していた一例は、今回の選挙の本質をよく表している。ある自民党候補者が街頭演説をしていた。ここにあとで小泉首相が応援に駆けつけることになっていた。やがて首相が到着した。候補者はまだ演説を続けていた。そうしたら聞いていた人が、「早く止めろ。首相を出せ」と怒鳴った。怒鳴った人は候補者の政策に共鳴しているのではなく、首相のアジ演説に酔いたいのである。
これこそまさにナチズム(ファッシズム)の土壌である。カリスマ性のある政治家の演説に、思考停止したまま喝采を送る。その風景は独裁色の強い、あるいは宗教色の強い外国では見慣れた風景である。アメリカという民主主義国でさえ、大統領選挙毎に繰り返される風景でもある。日本ではそういうことは起こらないだろうと考えていた。しかし今度の選挙は、戦後民主化された日本でも、演説による大衆洗脳の可能性と、それを可能にする人物がいることを知らしめた。
多くの国民は賢明である。しかし前稿で述べたように、洗脳される人は僅か3〜4%でよいのである。その僅かな人数が心を動かされるだけで、与党に絶対権限を与える可能性があるのである。これは恐ろしいことではないだろうか。
勿論、小泉首相がヒトラーほど悪質で、独裁を志向しているとは思わない。選挙前のテレビで、かれは先の戦争を自衛戦争であったという靖国神社の見解には同意しないし、A級戦犯に戦争責任はあったと明言した。その靖国参拝への固執を除けば、中国や韓国とも友好を進めたいと思っていると見られている。北朝鮮への経済制裁の声にも、一人で立ち向かっている。北朝鮮との国交正常化を進めたいとも思っているだろう。その点で全くガチガチのナショナリストではない。
そのことが今のところは救いであるが、問題は本当に悪質なアジテーターが出てきたときのことである。石原慎太郎や安部晋三ではその危険が充分ある。この二人への人気にも、今の小泉フィーバーに似た性格があるのが怖い。もっと悪質な人物が出現する危険は常にある。その時の日本国民の反応が恐ろしい。その危険については、すでに「窒素ラヂカルの正論・暴論」に載せた「ヨン様・純ちゃん・自己責任 ―自由から逃れたがる人々―」で述べたとおりである。
その中で筆者は次のように述べていた。「この国の人々の、余りにも無防備な、讃仰・憧憬・熱狂の感情の赴くままの行動に、空恐ろしさを感じるのはこの老人だけだろうか。益々弱者切り捨て政治が進む今の日本には、孤独感・無力感にさいなまれる多くの人々がいる。その人々の前に、理屈抜きで震いつきたくなるような優しい男性が現れたとき、また、断固とした政治姿勢、「悪の枢軸」をばっさりと切って捨てる、歯切れのいいもの言いを売り物にする、頼りになりそうな政治家が現れたとき、日本国民は理性よりもまず感覚で、熱狂的に支持するのではないか。70年前にドイツの下層中産階級がそうであったように。」
その予想がこれほど早く現実のものになるとは筆者も考えていなかった。かつて日本は狂気の時代を経験した。それに至る過程は複雑で、天皇絶対体制の中であったから今とは全く事情が異なる。しかしその狂気の時代を、暴力で強制された一面があるとはいえ、国民は熱狂的に支持し、国は軍国主義一色に塗りつぶされた。マスコミも権力に隷属した。日露戦争勝利後、その勝利が薄氷を踏むようなものであったことを知らない国民は、戦後の条約で得るものが少ないと、条約を結んで帰国した全権大使、小村寿太郎を罵声で迎えた。その国民の愚行をメディアもあおった。「帝国の光栄を抹殺し、戦勝国の顔に泥を塗りたるは我が全権なり。国民は断じて帰朝を迎えるなかれ。これを迎うるに弔旗をもってせよ」(萬朝報、1904.9.1)。
日露戦争までは矜持を保っていた日本の政治家も軍人も、その時以来、紆余曲折を経ながらも狂気の道に突き進んだ。日露戦争の時の日本は、愚直なまでに国際法を順守し、今時大戦におけるような無法な行為は全く行わなかった。「昨日の敵は今日の友」という、なごやかな水師営の会見も可能であった。
それ以後の狂気の時代を作ったのには、指導者の責任が当然重いとはいえ、国民の無知と愚かさが時代を間違った方向に進めたことも事実である。今回の選挙結果を受けても、マスコミや評論家は、公式の場で国民が馬鹿だとは言いにくいだろう。早速勝ち馬に乗る田原総一郎のようにアホなジャーナリストもいる。しかし馬鹿は馬鹿だということは必要であるし、こういう結果を伝える上で、メディアが批判的精神を失っては過去の過ちを繰り返す。民意といえども間違うことがある。政治家に対しては勿論、民意への批判能力も持たなければ、ジャーナリストの名が泣くだろう。
Blog上の「自民党の投票しようとしているあなたに」に書いたように、あれほど問題の多い小泉政治を、問題を意識できずにこれほど熱狂的に支持した人が、僅か数%とはいえいたことが、今回の危険な政治状況を作り出した。郵政民営化にしても、その問題は巨大かつ複雑で、十分理解している人は国民の1%もいないのではないか。それを「郵政民営化〇か×か」と、まるでテレビのクイズ番組のように単純化して、それがバラ色の将来につながるかのように催眠術をかけた小泉首相を支持したツケを、どういう形で国民が払うことになるのか、数年後には明らかになるだろう。
どんな結果になろうとも、国民は自分でその結実を刈り取るほかない。それ程に国民自身が、重大な責任を負ったことになる。そんな自覚もなく自民党に投票した人が、あとで泣き言を言っても始まらない。自分自身が、自分の墓掘り人を選んでしまったかも知れないのである。
いずれにしても今回の選挙は重要な二つのことを明らかにした。一つは、小選挙区制という制度が、たった数%の馬鹿がプロパガンダに乗るだけで、独裁への道を開く可能性があるということ、もう一つは、プロパガンダに乗せるヒトラー的な手法をとれる政治家が、日本にもいたということである。その手法を駆使する政治家を、選挙戦術が巧みだと評価することだけは、マスコミにもして欲しくない。
22:26:40 |
archivelago |
|
TrackBacks
Comments
コメントがありません
Add Comments
トラックバック