Complete text -- "「勇ましい人」に支持が集まる恐ろしさ"
21 June
「勇ましい人」に支持が集まる恐ろしさ
6月19日の日経に載った世論調査の結果は、筆者には衝撃的であった。小泉内閣の支持率が4ポイント上昇して48%なったこともさることながら、「次の首相には誰がふさわしいか」という質問で、安部晋三氏が34%という圧倒的支持を集めたという数字である。2位以下は一桁で、与党民主党の菅直人(8%)、小沢一郎(7%)、岡田克也(6%)を遙かに引き離した。しかも民主党支持者でも24%と、岡田氏支持の19%を上回った。自民党の他の首相候補とされる「中二階」の人達への支持は5%以下である。これは一体何を意味するのだろうか。安倍氏は靖国参拝問題でも、「次の世代の首相も必ず参拝すべきだ」と明言している一人である。北朝鮮に対しても、一貫して小泉首相より遙かに強硬な見解を持っている。NHKの番組へ圧力をかけた張本人でもある。
その姿勢・思想・勇ましさは石原東京都知事に共通するものがある。どちらもはっきりとものをいう。石原氏も都民の300万人から支持を受けて当選した。都民にしろ国民全体にしろ、こういう「勇ましい人」に憧れる傾向は、この所とみに強まっているように見える。言ってみれば、中韓の反日姿勢に触発されて、日本国民のナショナリズムが高揚しているということであろう。
しかしこの傾向は極めて危険である。中韓のナショナリズムが危険であるように、日本のそれも危険である。それなのに自民党の主流は、憲法改正、教育基本法の改正でナショナリズムに拍車をかけようと目論んでいる。これでは隣国ならずとも心配になる。不思議なことに中国の反日ナショナリズム教育を非難する人達は、同じことを自分たちが日本でやろうとしている。中国がやって非難されるべきは、自分がやっても非難されるべきなのである。
「最後は戦争」というのがかつての国の行き方であった。しかしそんなことは「戦争放棄」の憲法があろうとなかろうと、もはや不可能になっている。いわゆる強硬派の人達は、自分たちの主張の線を突き進んだとき、どうなるのかを考えているだろうか。たしかにその中のごく一部の人達は、日本も核武装をして戦争でもやればいいと思っているようである。しかし大半の人はそこまで考えているようには思えない。
「戦争はできない」というのが大前提であるのなら、なるべく多くの国と仲良くやるのが賢明であろう。ナショナリズムの角を突き合わせていて、互いに何が得られるのだろう。毅然としなければ相手に押しまくられるだけであると考えるのだろうか。毅然としていることは大切である。しかしそれは独りよがりの主張を繰り返すことではない。自国の過去の誤りについては、率直に謝る勇気と誠意を持つことが建設的な対話の始まる大前提である。今回の日韓首脳会談の空しさはどうであろう。
東京裁判があろうと無かろうと、戦争責任がA級戦犯にあることは否定しようがない。しかし多くの国民とマスコミが、指導者の勇ましさに拍手を送ったことも事実である。その拍手があったればこそ指導者は暴走が可能であった。いま勇ましい発言をする人を支持することが何をもたらすかを、歴史の教訓を無にしないために今一度考えて欲しいものである。
今年2月、「窒素ラヂカルの正論・暴論」に書いた「ヨン様・純ちゃん・自己責任 ―自由から逃れたがる人々―」を是非呼んで頂きたい。ファッシズムの土壌を作らないために。
23:33:14 |
archivelago |
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