Archive for September 2005

30 September

首相の靖国参拝に違憲の判決

 今日9月30日、大阪高裁は、首相に靖国参拝は違憲との判断を示した。去年4月の福岡地裁に次ぐ違憲判決である。実は昨日、東京高裁が参拝の公的性格を否定したばかりであった。高裁レベルでの司法の判断が真っ二つに割れたことになる。しかし大阪高裁の判決の方に説得力があることは歴然としていよう。

 これまで司法は違憲の疑いのある政治家の行動に対して、実に臆病な対応をしてきた。憲法の番人といわれる最高裁にしてからが、常に逃げの判断を繰り返してきた。それが最近、司法も少し政治からの独立の気概を持つようになったかと思わせる判決が出るようになった。海外在留邦人の選挙権についての最高裁の判決がそうである。また一票の格差について繰り返されてきた訴訟でも、一番新しい判決ではもう一歩で違憲判断となりそうな少数意見が多数ついていた。恐らくこれ以上政治が怠慢を続ければ、次の裁判では違憲判決となり、選挙無効となる可能性が大である。
 
 大阪高裁の違憲という判断は、二つの基準からなされた。すなわち一つは小泉首相の参拝が公的なものか私的なものか、二つにはこの参拝が特定の宗教を特別に支援しているかどうかの観点である。第一の点に関して高裁は、小泉首相が政治公約の実行行為として参拝していること、公用車を使い首相秘書官を伴っていること、私的参拝を強調し始めたのは福岡地裁の判決が出てからであって、それまで公的立場を否定していなかったこと、「内閣総理大臣 小泉純一郎」と記帳したことなどから、「内閣総理大臣の職務と認めるのが相当」とした。
 第二の点については、首相の参拝以後、靖国神社のHPへのアクセスが急増したことなどを挙げ、「国と靖国神社との間にのみ意識的に特別に関わり合いを持ち、一般人に国が靖国神社を特別に支援している印象を与えた」とした。
 その二点に照らして、「特定の宗教に対する助長、促進になると認められ、我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超える」として、憲法第20条3項の禁止する宗教的活動に当たると結論した。きわめて常識的な判断である。

 この訴訟は台湾人116人を含む188人が、首相の靖国参拝で精神的苦痛を受けたとして、一人あたり1万円の損害賠償を求めて起こしたものである。判決は信教の自由などの権利が侵害されたとは言えないとして、原告等の控訴を棄却した。したがって形の上では原告敗訴、被告勝訴であって、国はこれを最高裁に上告することは出来ない。もし原告が「実質勝訴」として上告しなければ、高裁判決は確定することになる。

 原告の台湾原住民族は二重の意味で靖国神社に苦痛を被っている。一つは1874年の「台湾出兵」、日清戦争後、1895年の「台湾征討」、1896〜1915年の「台湾理蕃」、1930年の「台湾霧社事件」と、4回にわたる日本軍の台湾人との戦いでの日本側戦死者が靖国神社にはまつられていることである。特に10年にわたる「台湾理蕃」での戦死者約1500柱が英霊としてまつられている。日清戦争によって、台湾が日本領土となった後にも、原住民の中には「まつろわぬ人々」がいた。それらの人々、すなわち蛮族達を討伐することを「理蕃」と呼んだ。このことを知っている日本人は非常に少ないであろう。恐らく小泉首相も知らないのではないか。これら原住民にとっては、自分たちの民族を滅ぼした、憎むべき敵がまつられた神社が靖国神社なのである。
 もう一つは太平洋戦争で、「高砂義勇軍」として日本軍の下で戦った台湾出身の戦死者28000余柱が靖国にまつられていることである。今回の原告団の一人は、「私たち台湾の原住民族が、人殺しをした人と一緒にまつられることは納得できない」と語っている。自由意思で自分たちの流儀で死者をまつりたいのに、その意思に反して強制的に靖国神社にまつられていることが腹立たしいのだという。靖国神社は二重に彼らに苦痛を与える存在なのである。
 その靖国神社は、首相がよくいう「先の大戦」だけでなく、日清戦争以後大小すべての戦争を「聖戦」ととらえ続けている。「靖国神社忠魂史」全5巻、5千ページは、日本植民地主義の歴史といわれる。理蕃についても、「(理蕃に)与って国に殉じた、忠勇義烈の士の賜物として、その御霊を長しえに仰ぎ弔わなければならぬ」と記述している(何という悪文!)。(高橋哲哉著「靖国問題」、ちくま新書、2005による)  

「正しい戦争」に命を捧げることをたたえ、靖国の庭で会うことを最高の名誉と思いこませ、息子を死なせた「軍国の母」に不満を持たせないための「戦争遂行のための国家機関」靖国は、今なお健在である。靖国がそんな存在であることを知ってか知らずか、「靖国神社に参拝することが何で違憲なのか、理解に苦しむ」と今日も言い続ける小泉首相の頭こそ理解に苦しむ。今回は高裁レベルで話が終わりそうであるが、一日も早く最高裁で違憲の判決を出して欲しいものである。

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27 September

窒素ラヂカルおよびblog chisso radicalのランク

HP「窒素ラヂカルの正論・暴論」http://www.archivelago.com/~Chisso/
および本ブログ「blog chisso radical」の、最近のGoogleにおける「ページランク」は次の通り。

変節 議員 票  2/941
公明党 権力行使 違憲  2/15100
議席数 民意 小選挙区制  3/32500
自民党 投票 郵政民営化 あなた  33/266000
公明党 自民 政治 支える  1/58200
靖国 争点 NHK 討論  37/23800
米国 カトリーナ 温暖化  91/26800
空気 恐ろしさ  13/138000
小泉 討論術  82/58500
ぶれない 姿勢 判断力  1/298
すり替え マジック 小泉  1/595
大乱 望む  25/567
情報源秘匿 記者収監 アメリカ  51/279
テロとの戦い 空しさ  2/279
警察庁長官 自らの非  1/84
堤一族 政務調査  1/66
自民党憲法草案  140/77000
自治体 矢祭町  14/16500
NHK番組 政治介入  48/11200
日米軍事一体化  6/35300
地方政治 改革 大阪市  1/105000
劣化 政治家 外交センス  1/327
国連改革 拒否権 制限  2/17500
東シナ海 ガス田 共同開発  230/47000
敗戦60周年  131/41200
今さら 談合 騒ぐ  5/578
勇ましい人 支持  3/85
国連 茶番 笑劇  1/59
NPT 崩壊 金正日 高笑い 6/142
八方塞がり 外交  69/853
挑発的 ブッシュ 人事 ボルトン  9/647

 概して高い評価を頂いています。有り難いことです。

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24 September

核放棄かと、嬉しがらせて北朝鮮は?

 前日まで決裂かという悲観的な見方がされていた6者協議が、19日一転、共同声明の採択に至った。その中では「北朝鮮はすべての核兵器および既存の各計画を放棄する。NPTに早期に復帰し、IAEAの査察を受け入れる」ことが明記された。一方北朝鮮は原子力の平和利用の権利を持つ旨を発言し、他国はその発言を尊重する旨を述べ、適当な時期に軽水炉提供問題について議論することで合意した。

 一見北朝鮮が大きく譲歩したように見えた。ところがその翌日、平壌放送は軽水炉が提供されなければ核放棄はしないとの談話を発表した。北朝鮮は「米国が核兵器放棄を優先し、軽水炉提供を後回しにするとの主張に固執するなら、核問題では何も変わるものがないだろう」とさえ警告した。何のことはない。米政府高官の発言通り、核放棄前に軽水炉提供などあり得るはずもないので、今度の声明で従来と何かが変わったのか大きな疑問がつくことになった。それというのもこの声明は、最終目標を述べただけで、時間軸が全く含まれていないからである。
 期限のない計画は計画ではないというのが世の常識である。共同声明はその通りの欠陥をさらけ出したことになる。恐らく期限をつけたら声明採択には至らなかったのかもしれないが、各国とも決裂だけは何としても避けたいと考えたのであろう。新聞の社説では、保守系が北に対して警戒感を失っていないのに対して、朝日、毎日は「非核化へ歴史的一歩」、「大きな一歩」と歓迎した。それでも「具体的な道筋はこれからの問題」としている。
 
 なにしろ北朝鮮は、1992年に韓国との間で朝鮮半島の非核化に関する共同宣言に調印したのに、その後原子力発電所を建設し、核物質を取り出し、共同宣言を実質上無効にした。1994年には、米国との2国間で核開発凍結を約束した米朝ジュネーブ合意に至った。ここでは米国が軽水炉建設を行い、北朝鮮は核物質抽出を中止することを取り決めたはずだった。しかし北朝鮮はこれを無視し、核物質を抽出し、核兵器保持声明まで出すに至った。このような北朝鮮の態度は、小泉首相の訪問時出された平壌宣言の精神も踏みにじるものだった。
 このように北朝鮮は、国際社会にしばしば煮え湯を飲ませてきた国である。とても一片の声明で信用するわけに行かない。中国代表の武大偉外務次官がいうように、「我々は今後も非常に長い道を歩まなければならない」ということであろう。11月上旬に次回協議を開くことになっているが、ここでまた今までと同じやりとりが繰り返されることになる。

 今回の協議時に注目されたのは、北朝鮮が積極的に日朝協議に応じたことである。今までの北朝鮮の、木で鼻をくくったような対日姿勢とは明らかに変化した。恐らくこれは、小泉首相が選挙で大勝し、しかも後1年で首相を辞めると明言していることから、小泉在任中に国交正常化を図りたいという意図があるものと思われる。
 国交正常化のためには、拉致事件に何らかの姿勢の変化が不可欠である。しかしあれほど拉致事件はすでに解決した問題だと主張していた北朝鮮が、もう一度別の拉致を認めることは、第一回小泉訪朝の際に拉致を認めたこと以上に難しいのではないか。その理由の一つは、拉致は一部の跳ね上がりが引き起こしたという言い逃れが出来ないことである。なぜなら「横田めぐみさんの遺骨」を出してきたことを含む一連の対応は、まさに金正日の了承の下に行われたことは明白であるからである。もう一つの理由は、残りの拉致被害者は、恐らく北の政権の中枢に関する情報を持っていて、帰すに帰せない人達だろうからである。

 北は「過去の清算」という名の援助を日本から引き出したいのは山々であろう。交渉上手の金正日のこと、これからもある時は嬉しがらせ、ある時は怒らせ、ついたり離れたりしながら、金を引き出す方はなるべく早く、核開発の方は逆に出来るだけ時間稼ぎをして引き延ばすことに努めるだろう。これに対して有効な手がないのが何とももどかしい。
 
 
 
 
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19 September

変節議員に投じられた票は?

 郵政民営化に反対し無所属で戦って当選した議員が、相次いで法案賛成の表明をしている。佐賀2区の今村雅弘議員と3区の保利耕輔議員、岐阜5区の古屋圭司議員、鹿児島5区の森山裕議員、山梨3区の保坂武議員が郵政法案賛成に転じるという。白旗を掲げて自民党からの除名処分を避けようということらしい。これは実にあきれ果てた行為である。これらの候補者に投じた票は何だったのか。
 
 不当なこととはいえ、「郵政民営化」が争点とされた選挙で、民営化反対を旗印にして戦ったくせに、選挙から数日しか経っていないのに全く逆の意思表示をするとは、驚きを通して怒りを禁じ得ない。自己の保身のために、選挙の持つ意味を全く消滅させる行為だからである。選挙民の意思は全く踏みにじられることになる。民主主義が根底から覆される。これは郵政民営化に賛成か反対かに関係なく、強く非難されるべきことである。地元でこれがどう受け止められているか情報がないのでわからない。これに非難の声が上がらないとしたら異常である。
 与党圧勝で、反対しても仕方がないというのかも知れないが、それは言い訳にもならない。もし数だけがすべてであるなら、選挙で議席配分が決まった段階ですべてが終わり、「議する会」という議会の意味がなくなってしまう。郵政法案に反対したのだから、その法案に対して自分の考えや信念があったはずである。議会でその考えを堂々と開陳して、提案された法案の問題点を指摘すべきである。たとえ議決の結果、自分の意見が通らなかったとしても、その問題点指摘は、法案成立後の実施の段階での配慮に結びつくかも知れないし、記録に残った意見が、後世卓見だったという評価を受ける可能性だってある。

 同様に参院側でも「変節議員」が見られる。選挙期間中に、与党が過半数なら民意を尊重して賛成に回ると表明した鴻池祥肇参院議員がいる。選挙後、法案に反対票を投じた中曽根弘文議員ら20人と欠席・棄権8人の内、12人が一転して法案に賛成を投じるという。これも「国民の意思を重く受け止め尊重したい」という説明である。選挙前に言っていた「(小泉首相の解散をちらつかせた脅しは)再考の府とも言われる参院の自由な審議権や独自性を無視し侵害するものであり、二院制を形骸化させる」という正論はどこへ行ったのか。衆院選の結果で、参議院議員が自らの信念を捨てるのであれば、参議院は要らない。実際衆議院で与党が三分の二を獲得して、参院の重みはなくなってしまった。
 
 これらの議員は、単に自分の支持者が反対だから、票をもらうために、郵政法案の善し悪しには関係なく自分の行動を決めたのだろうか。口だけで立派なことを言っても、今後これらの議員の言葉は誰からも信用されないだろう。説明責任も果たさず、自民党への未練だけで、軽々と変節する。こういう時の出処進退こそ、その人物の真贋が明らかになる。
 
 
 
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16 September

やはり公明党の権力行使は違憲の疑い

「ひでぼん」さんに反論する
       ―やはり公明党の権力行使は違憲の疑い―

 私の「公明党はいつまで自民政治を支えるのか」という文章にコメント(以下コメントといったらこれを指す)を頂いた「ひでぼん」さんに反論致します。

 「私が宗教団体と一心同体の政党が、政権に参加すること自体、憲法20条第1項に違反する疑いが濃いが、一旦それはここでは置いておこう」と書いたことに、先ず強烈に反発されました。この憲法理解度は幼稚園児並みだということです。折角置いておこうとしたことに反発されたのですから、この問題を議論しないわけにはいきません。
 
 幼稚園児とは申しません。中学生か高校生に、憲法20条第1項の文章、「いかなる宗教団体も、(国から特権を受け、または)政治上の権力を行使してはならない」を読ませてみて、ある宗教団体が連立政権に参加していることは、政治上の権力を行使していることにならないかと質問してみて下さい。恐らく「政治上の権力を行使している」という答えが多いのではないでしょうか。
 私の解釈は公明党の存在とその活動を根底から否定することになりますから、ひでぼんさんが「幼稚園児」などという誹謗までして反論される気持ちはよくわかります。公明党もあらゆる法律上の知識を駆使して理論武装をし、支持者にも徹底させていることでしょう。公明党の党首も幹事長も法律の専門家ですから、何とでも理屈はつくかも知れません。私は法律の専門家でも何でもなく一市民ですので、その争いになったら勝てそうもありません。
 しかしこれは自衛隊が憲法違反かどうかという議論によく似ています。これまで半世紀以上、法律家と政治家がよってたかって、現実に合わせるためにねじ曲げねじ曲げして作り上げてきた、「自衛隊合憲論」が、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」という条項の、中学生並みの素直な日本語解釈ではおかしいということになるのとそっくりです。みんながおかしいと思えばこそ、憲法改正の気運が高まっているのでしょう。
 コメントの中で、あなたは「宗教団体が政治にかかわると憲法違反、などという暴論にいきつくわけがありません」と述べられました。私は「宗教団体が政治にかかわると憲法違反」などと、一言も言っておりません。議論をすり替えないで下さい。私は宗教団体が政治活動をすることは、憲法もそれを保障していると考えますし、それが限度を超えない限り当たり前だと思います。私が言っていることは、「宗教団体が権力を行使することが憲法違反の疑いがある」ということです。

 だから問題はその政治活動が、権力の行使に至ったとき、20条に違反しないかということです。日本国憲法は、おそらく世界でも珍しいのでしょうが、厳格な政教分離を定めています。先に引用した憲法20条第1項の後段の規定は、「信教の自由は、何人に対してもこれを保証する」という前段の規定を強化するためのものだという解釈が可能です。なぜならある特定の宗教団体が「政治上の権力を行使」したら、他の宗教団体はその権力によって規制を受け、信教の自由が侵される可能性があるのを事前に防ぐ意味があるからです。
 公明党は、憲法20条でいう「権力」とは、裁判権・徴税権・警察権などの、「統治的権力」であると主張しています。しかしこれは随分強引な解釈であって、権力がこんな狭いものを意味するとは私には思えません。「権力」を上記の「統治的権力」に限定するなら、憲法第20条第1項後段の規定は一体何のためにあるのかということになります。
 従って宗教団体にも保障された政治活動が、20条が禁止した「権力の行使」に及びそうになったとき、政治活動の自由とどう折り合いをつけるかの問題になります。政治活動の自由といっても、それが破壊活動であったり、テロであったりすることが認められるはずがありません。その意味では「政治活動の自由」は、例えば「公共の福祉に反しない限り」とか、「他の基本的人権が侵されない限り」というような制限を付けうる自由だといえるでしょう。
 それに対して、「宗教団体の政治上の権力行使の禁止」は、「信教の自由」を保障する重要性から見ても、例外を認めるべき規定とは思えません。従って特定の宗教団体が権力を行使することが、他の宗教団体の信教の自由を侵害する恐れがあるのなら、「政治活動の自由」は制限されるべきだと考えます。
 コメントの中であなたが述べられた「国民の大多数が特定の宗教団体に属したら政治活動が出来なくなれば、宗教団体に属しない人間だけで行われる政治しかありません」という文章は全くナンセンスです。そんな馬鹿なことをいっている人は誰もいないでしょう。もちろん私もそんなことは言いません。

 私は憲法第20条違反の疑いは、すでに公明党が国政に乗り出したときから始まったと思います。なぜなら国政に乗り出すということは、権力を持つことを目指すものにはかならないからです。まして宗教団体が政権の一翼を担うことを憲法が想定していたとは到底思えません。
 ここで私は今敢えて、意識的に公明党=創価学会ということで議論しています。それにあなたは反論されるでしょうが、あなたがどう強弁されようと、その一体性は創価学会員を含めて、日本人のほとんどが肯定せざるを得ないでしょう。それは選挙の時の一糸乱れぬ創価学会員の、あきれるほど熱心な活動からも伺えます。

 私はイスラム圏の国々での宗教による政治支配の、人々、特に女性の基本的人権を認めない非道性や、神の名における残酷なテロ活動を見るにつけ、また日本においても、国家神道という宗教が行った巨悪を考えるにつけ、戦後の日本での宗教が、これまで政治に発言力を余り持っていなかったことは、非常に幸せなことだったと思っています。
 神なり仏なり、また別の名で呼ばれるなり、何でもいいのですが、「絶対者」を信じるものが宗教であるなら、その信者はその絶対者に帰依するしかないのであって、批判したり反対したり反抗したりすることは出来ないはずです。批判、反対意見の開陳が、民主主義の必須条件であることを考えれば、宗教が政治に容喙することはそれを侵す危険が多分にあります。たとえその宗教団体が、「世界平和」「人道主義」「弱者救済」などを標榜していたとしても同じことです。団体に対する批判はそのまま「仏法への反逆」「仏敵」などと、言われてしまう可能性があるからです。
 かつて創価学会が引き起こした批判本の出版差し止めという、あってはならない言論弾圧行動や、いまは党の綱領からは削除された「国立戒壇」とか「王仏冥合」といった思想が、根本的になくなっているとは信じられません。あの事件後行った池田名誉会長の「猛省」のあとも、名誉会長は「仏敵」という言葉を使っています。
 創価学会に限らず、宗教団体が極楽浄土を作ると称して、国をその宗教一色に染めようとする主張は沢山あります。そんなえせ宗教とは違うというかも知れませんが、それが宗教である以上、目指すところは同じではないのですか。創価学会・公明党の、批判に対する異常なまでの反発は、その批判がそれだけ核心をついているからでしょう。

 あなたが支持しているらしい小泉首相の尊敬する人は信長だそうです。信長は比叡山焼き討ちで女子供まで皆殺しにしました。一向宗への残虐な弾圧も徹底しています。そのような非道さ、非情さを非難し嫌悪する人は沢山います。しかし一方で、信長ほど徹底した「改革者」は、世界的に見てもいないという評価も広く行われています。小泉首相が彼を尊敬するのはそのためでしょう。
 信長の比叡山、一向宗弾圧のお陰で、日本ではその後宗教戦争がほとんど起こらず、その後の社会動乱の大きな一つの根が断ち切られたという歴史家もいます。私はその見方が正しいかどうかを判断する力を持ちません。また私はその信長の非情さはどうしても好きになれません。しかし日本が宗教によって政治が壟断される社会ではなくなったのは、大変よかったと思っています。
 だからこそ、新たな宗教の政治進出を認めるわけにはいかないのです。個人がどんな宗教を信じようと、オウムのような宗教を認めないといったある制限の下ならば、それは自由であるべきです。しかし他の宗教信者や無宗教者に影響を与えるような権力を、特定の宗教団体が持つことには断固反対せざるを得ないのです。
 創価学会は公明党という政治団体を通じて、政治に強い影響力を持つようになっただけでなく、その豊富な資金力を活かした、本や雑誌の広告料、政教新聞などの印刷委託を通じて、マスコミの創価学会・公明党批判をも実質的に封じています。これはゆゆしいことです。今はネット上および余り高級でない週刊誌と、いくつかの単行本以外、ほとんど創価学会・公明党批判は見ることが出来ません。
 本当なら公明党の国政進出と憲法との関係の議論は、マスコミでも憲法学領域や法曹界でも活発に行われるべき重大問題だと思いますが、残念ながらほとんど行われておりません。公明党はこの問題はすでに決着済みとしていますが、決着どころか、今回の選挙結果のように問題は益々深刻になっています。だから「幼稚園児並みの憲法理解度」とののしられようと、やはり声を出さなければならないのです。この問題が出たときの創価学会・公明党の反発の激しさ、その言葉の品のなさは驚くばかりです。
 自民党の中にも、公明党に批判的な人は少なくありませんでした。恐らく小泉首相もその一人でしょう。それが公明党なしでは政権維持が出来なくなった自民党からは批判の声が上がらなくなりました。全くのご都合主義と言わざるを得ません。

 自公で三分の二以上の議席を占めたのですから、与党だけで憲法改正の発議が自由に出来るようになりました。実際に与党案がどういう形で出されるかわかりませんが、2党の協議の中で、既成事実を合憲化するために、まさか第20条第1項の後段をそっと削除するなんてことにはならないでしょうね。何しろ自党を有利にするために、都市部だけを中選挙区制に戻すゲリマンダー的画策さえした党ですから信用できないのです。昔鳩山内閣がやろうとした「鳩マンダー」というのがありましたが、「公マンダー」とでもいうのでしょうか。幸い世論の反発もあって不成功に終わりました。
 議席の三分の二を占めると、憲法第55条によって、議員の議席を失わせるという恐ろしいことも出来ます。公明党を批判する「仏敵」議員は、議員の資格がないと言わないで下さいね。

 あなたは私に「もう少し深く、正しく、どこまでも冷徹に客観的に情報を取材し、選択し、よって事実に迫る認識をして頂きたい」と忠告して頂きました。これは何かの主張をする人の心がけるべき基本だと思います。ではコメントに見られるあなたの認識や文章はこの自分の忠告に忠実なのでしょうか。私には創価学会・公明党可愛さの余り、それへの批判は許し難いという意識が強すぎて、冷徹さも客観性も失われているように思えてなりません。この忠告をあなたにそっくりお返ししたいと思います。
 あなたのコメントに対する反論的再質問を、コメントへのお礼として書いてありますので、もし目に触れたらお読み下さい。

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