Archive for May 2005

06 May

チェスキー・クルムロフとプラハを歩く

 4月24日、バスでウィーンを発ってチェコへ向かう。快調に飛ばしていたバスが小さな峠を越えようとしたときに突然おかしくなった。たまたまあった待避路に止まったまま、ドライバーの努力にも拘わらず動かない。第一の目的地、チェスキー・クルムロフ見学中の日本人ツアー客のバスを急遽呼び寄せ、2時間遅れで目的地に向かうことができた。
 故障した場所の名もわからないが、そこは絵に描いたようなヨーロッパの田園地帯であった(写真1)。どこにでもある教会の尖塔がアクセントになって本当に美しい。植物の好きなN氏共々、路傍や休閑圃場を歩き回って、多くの草花を観察しそれらの写真を撮った。その多くは名前がわからない。2時間全く退屈しないで過ごせた。(中欧の花の写真は別途紹介する)
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 チェスキー・クルムロフはオーストリアとの国境に近い、チェコ南端にある町である。1992年、ユネスコの世界遺産に加えられた。世界でも指折りの美しい町と称される。
 ヴルタヴァ川(ドイツ語でモルダウ川)が大きく蛇行する場所を利用して、13世紀南ボヘミアの豪族、Vitkov家によって城が築かれたのが始まりである(写真2)。
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 この城はボヘミア地方ではプラハ城に次ぐ大きな城である。その後領主は次々に変わったが、街には石畳の路地が入り組み、ヴルタヴァ川の流れと調和して、中世さながらの雰囲気が変わらず残っている(写真3)。
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 塔の展望台に登れば街周辺のボヘミアの大地が一望できるはずだが残念ながらその時間がなかった。スメタナの大交響詩「我が祖国から」の「モルダウ」を聴きながら、暮れかかる空の雲の変化を楽しみつつプラハへ向かう。

 明けて翌25日は、プラハの街の見学である。北上してきたヴルタヴァ川が大きく東へ向きを変える辺り、左岸の丘の上に立つプラハ城がこの街のシンボルである。城壁に囲まれた広大な敷地には、旧王宮、宮殿、聖ヴィート大聖堂、聖イジー教会、修道院などが建つ。建物の一部を利用した大統領官邸、博物館、美術館もある。ここの展望台からは対岸のプラハの街が一望できる。百塔の街といわれるだけあって尖塔の数が実に多い。
 聖ヴィート大聖堂は中庭から撮ったのではよほどの広角を使わないと全体を捉えられない(写真4)。もともとは930年に造られたロマネスク様式の教会であった。たびたびの改築後、現在見られるゴシック様式の堂々たる建造物への大改修が着手されたのは1344年、完成したのは20世紀に入ってからという息の長さである。ヨーロッパの大建造物には何百年もかけたものが珍しくない。
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 プラハ城から歩いて解散場所である対岸の旧市街へ向かう。途中渡るのが有名なカレル橋である。ヴルタヴァ川にかかる最古の橋。カレル四世の命で1357年に着工し、半世紀以上かけて完成したゴシック様式の、全長520mの石橋。両側の欄干に立ち並ぶのは聖人や英雄達。中でも聖ヤン・ネポムツキー像に触れると、幸運に恵まれるという言い伝えから、みんなが触れるのでそこだけが輝いている(写真5)。聖フランシスコ・ザビエルの像もある。橋の上はミュージシャンや似顔絵描き(写真6)なども出て大変な賑わいである。
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 旧市街に建つ旧市庁舎の壁にある「天文時計」がまた有名である。15世紀に造られ、いまなお毎時鶏が時を告げ続けている。毎正時、窓に仕掛け人形が姿を現し、死に神を示す骸骨が鐘をならす頃になると、多くの人が時計の下に集まってくる。この時はスリの稼ぎ時でもある。

 解散後、各人思い思いに昼食を取り、見たいところに散って行く。自分は一人でプラハ城に隣り合ったマラー・ストラナという丘へ向かう。あいにくの小雨の中、川の中州を跨いでかかる「チェコ軍団橋」を渡り、ケーブルカーで山に登る。山の上は広い庭園になっていて、ちょうど桜が満開であった。桜といったが日本とは趣が異なり、ほとんど白一色、確かに桜と思われるものもあるが、リンゴやアンズあるいはナシか、その他特定しにくいバラ科の花木が入り交じって咲いている。雨も上がって、花を前景にしたプラハ城の写真を撮りまくった(写真7,8)。自分としては実に贅沢な一時であった。
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 山を下り、ヴァーツラフ広場を国立博物館まで歩く。残念ながらもう閉館の時間に近く入場はあきらめる。広場といってもプラハ一の大通りといった方がぴったりする。博物館の入り口からヴァーツラフ広場を望んだ写真(写真9)中央に写っている後ろ向きの騎馬像が、ボヘミア最初の王とされる聖ヴァーツラフである。
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 この広場はチェコの歴史を語る上で欠かせない。1968年、ドプチェクに率いられた自由化路線が、侵攻してきたロシアの戦車に押しつぶされて「プラハの春」は終わりを告げた。翌年1月、これに抗議した学生、ヤン・バラフが、ヴァーツラフ像の前で焼身自殺をはかる。それから20年後の1989年、100万人がこの広場に集まり、無血の独立を果たす。「ビロード革命」である。

 これで正味6日間の中欧旅行は終わった。ハンガリー・オーストリア・チェコ3カ国の駆け歩きという印象である。どうしても見たかった国々で、期待通りの都市景観に感激もしたが、欲をいえばきりはないとはいえ、やはり上っ面しか見られなかったなというのが実感である。博物館・美術館もほとんど見なかったし、まして音楽に触れる機会もなかった。次の機会があるかどうかわからないが、一国、または一都市に数日とどまってもう一段深いところに触れてみたいという気が強くする。
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05 May

ウィーン駆け抜け

 ウィーンはいわずと知れた音楽の都、そして森の都である。また日本から中欧への出入り口でもある。13世紀から20世紀初頭までの約600年間に及ぶ華やかなハプスブルグ帝国の都でもあった。
 第二次世界大戦で荒らされたとはいえ、王朝文化を伝える数々の建造物、数多くの大音楽家達の像や記念館、そして今日も世界最高の音楽の聴ける場が、多くの観光客を引きつける。そこを僅か1日で駆け抜けようというのだからそもそも無理な話である。
 
 4月23日午前中、先ずベルヴェデーレ宮殿を見学する(写真1)。この宮殿はトルコ軍を撃退した総司令官プリンツ・オイゲン公の夏の離宮として18世紀初頭に建てられた。上宮と下宮に分かれたバロック様式の豪華な宮殿である。上宮はオーストリア・ギャラリーに、下宮は中世とバロック美術館になっているが、外から眺めただけである。
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 続いてシェーンブルン宮殿を見学した。シェーンブルン宮殿は17世紀に建てられた、ハプスブルグ家の夏の宮殿である。中の見学は時間予約制で、中の撮影は禁じられている。女帝マリア・テレジアや少女時代のマリー・アントワネットもここに住んでいた。ロココ調の豪華な内部、女帝好みの黄色で統一された外観、総面積1.7平方キロに及ぶバロック庭園(写真2)。
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 午後はオプショナルの「ウィーンの森」ツアーに出かけた。ウィーンの森とはオーストリア・アルプスの東端が段々低くなって消えるあたり、ウィーンの市街地を北西から南西にかけて包み込むように広がる、数百平方キロもの広大な地域である。今回のツアーは南側の一部を巡るものである。
 最初に車が止まったのは、マリア・エンツァースドルフという場所。石造りの城砦が見える(写真3)。ここがリヒテンシュタイン公国の発祥の地だという。いまは別荘として使用されているとか。
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 次は地底湖(See Grotte)。昔石膏鉱山の跡。狭く暗い坑道を進んで行くと、馬小屋として使われていたという小部屋(哀れ、真っ暗な中で飼われていた馬はほとんど目が見えなくなったという)、ヒットラーの時代にロケット推進飛行機を作っていたという部屋、安全祈願のマリア像などがある。最後に行き着いたところが地底湖。ここで電動ボートに乗って、複雑に枝分かれした坑道跡の地底湖を数分間のクルーズ。
 シューベルトが「菩提樹」の楽想を練ったというレストランでTea time。側に西洋菩提樹が立っていた。
 次いでハイリゲンクロイツの修道院(写真4)。ペスト終結記念の三位一体像があった。
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 最後にマイヤーリンクにひっそりと立つ礼拝堂。1889年1月某日、ハプスブルグ家の皇太子ルドルフが、后がありながら17歳の男爵令嬢マリア・ベッツェラとの恋に落ち、愛に生きるか帝位を取るか、悩んだ末ピストル心中を遂げた悲劇の場所である。一人息子を失ったヨーゼフ一世とエリザベート皇后は嘆き悲しみ、狩猟の館のあったこの場所に小さな礼拝堂を建てた。この悲話は「うたかたの恋」という映画になった。

 ウィーンオペラ座横に戻ったら添乗員のM嬢が出迎えてくれた。いつしかM嬢と二人きりになり、歩いてシュテファン寺院を訪れる。12世紀から建設が始まったというこの寺院は、作られた時代によって部分部分で様式が異なる。正面入り口の門が最古のもので、ハプスブルグ支配以前のロマネスク様式。寺院全体はゴシック様式で立て替えられた。内部の祭壇は18世紀になって造られたバロック様式。北側の屋根にはハプスブルグ家の紋章である双頭の鷲と1831の年号が見える。
 最後に新王宮前のブルク公園を散策する。珍しい色の八重桜(写真5)やマロニエの花が美しかった。ト音記号を前にしたモーツァルト像(写真6)を写真に納める。王宮は新旧とも博物館・宝物館になっていて、これを観るだけでも結構時間がかかるらしい。
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 M嬢が案内してくれたセルフサービスのレストラン。皿の大きさで値段が決まっていて、どんなに山盛りしても構わないというが、外国のレストランでは量の多さに辟易する日本人には、好きなものを好きな量、安く食べられるので便利である。

 こうして慌ただしいウィーンの見物は終わった。何も見ないで、何も聞かないでこの文化と音楽の都を後にする感じである。ここだけで少なくとも4-5日は滞在してじっくり見物し音楽を楽しみたいもの。
 翌朝ホテルの窓から見た日の出(写真7)を想い出にチェコへ向かう。
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02 May

Hungary駆け歩き

 Hungaryは紀元5世紀頃、ウラル山脈あたりから西へ移動し始めたマジャール人(ハンガリー人の自称)によって作られた国である。16世紀のオスマン朝占領時代、17世紀から約200年間のハプスブルク絶対王朝時代、1867年後のオーストリー・ハンガリー君主国時代、第一次世界大戦後の独立国時代を経て、第二次大戦では独露の地上戦により焦土と化した。王宮やドナウ川にかかる「くさり橋」を初めとするすべての橋も破壊された。
 首都ブダペストは、もともと三つの独立したまちであった。ドナウ川西岸のローマ時代の遺跡が点在するオーブダ(旧ブダの意)と、13世紀以来の王宮を中心としたブダ、東岸の商業を中心としたペスト。この3市が1973年合併されてブダペストとなった。
 今回のツアーでは、ブダ側の王宮の丘にある「漁夫の砦」「マーチャーシュ教会」(写真1)、ペスト側の「英雄広場」を半日で見学しただけであった。午後は自由行動。ドナウ川クルーズでくさり橋をくぐり、ネオゴシック様式の立派な国会議事堂(写真2)を眺めながら、ドナウ川の三角州(といっても木の葉型)マルギット島の新緑を1時間楽しんだ。

 二日目はブダペストを離れ、そこから北へ約20kmの所にあるドナウベント地域の二つの小さな町を訪ねた。ここで東に流れてきたドナウ川がほぼ直角に南へ方向を転じる。Szentendreという町は中世からセルビア人を中心とする交易商人によって発展した町である。童話に出てくるような可愛らしい家並み、土産物屋と共に、七つの教会、15の美術館やギャラリーがひしめいている。丘の上の教会からはドナウ川の雄大な眺めと町並みが楽しめる(写真3)。
 さらに初代ハンガリー国王戴冠の地であるEsztergomは、ハンガリーカトリックの総本山がある(写真4)。この大聖堂のドームを巡る展望台に行くには数百段の階段を登らなければならないが、それに十分見合った360度の大景観を楽しむことができる(写真5)。
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写真3
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写真4
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写真5
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